南洋・パラオで出会ったふたつの個性
1900年に生まれた土方久功(ひじかた・ひさかつ)、そして1909年に生まれた中島敦(なかじま・あつし)。二人が出会ったのは1941年7月、ミクロネシア諸島のパラオでした。時あたかも太平洋戦争勃発の直前、ドイツ領であったミクロネシアは、1920年のパリ平和会議によって日本の委任統治領となっており、日本はパラオのコロールに南洋庁を置き、南洋政策を進めていました。
土方はすでに1929年、パラオへと渡っていました。自らの制作のかたわら、現地の子供たちに彫刻を教え、あるいは神話の採取、民俗の調査に日々を重ねていました。いっぽう、あの「山月記」で知られる中島は、1941年、横浜高等女学校を退職し、パラオ南洋庁内務部地方課に日本語の編修書記として諸島に渡りました。
異国の地で出会った二人は気脈を通じ合わせましたが、中島は慣れない諸島生活のうち一年に満たぬまに風土病に冒され、来島の翌年には帰国しました。そして33歳にして敢なく逝きます。結果、彼の南洋行は命を縮めることになったともいえるでしょう。土方もまた中島と同船して帰国、中島の病床を見舞いつつも、再び南方に渡っていきました。そして76歳にいたるまで、独特で多岐にわたる創作に生きました。
本展では、土方久功の絵画、彫刻、レリーフ、そして彼のさまざまな詩作や現地で採取した民話などをご紹介します。そして中島敦については彼の遺した著作をはじめ、その原稿や書簡などを映像展示を交えご紹介します。
土方はすでに1929年、パラオへと渡っていました。自らの制作のかたわら、現地の子供たちに彫刻を教え、あるいは神話の採取、民俗の調査に日々を重ねていました。いっぽう、あの「山月記」で知られる中島は、1941年、横浜高等女学校を退職し、パラオ南洋庁内務部地方課に日本語の編修書記として諸島に渡りました。
異国の地で出会った二人は気脈を通じ合わせましたが、中島は慣れない諸島生活のうち一年に満たぬまに風土病に冒され、来島の翌年には帰国しました。そして33歳にして敢なく逝きます。結果、彼の南洋行は命を縮めることになったともいえるでしょう。土方もまた中島と同船して帰国、中島の病床を見舞いつつも、再び南方に渡っていきました。そして76歳にいたるまで、独特で多岐にわたる創作に生きました。
本展では、土方久功の絵画、彫刻、レリーフ、そして彼のさまざまな詩作や現地で採取した民話などをご紹介します。そして中島敦については彼の遺した著作をはじめ、その原稿や書簡などを映像展示を交えご紹介します。